コンビニエロ本本棚のエロさ
エロい本棚 Advent Calendar 2022 - Adventar12日目
今回はエロ本とその本棚のエロさについて書きたいと思う。ここでいうエロ本とは以下のものを指している。
エロ本(エロほん)とは、成人向けの雑誌の中でも、特に性的興奮のための娯楽要素を扱う分野の書籍および雑誌の俗称である。成人向け雑誌、H本(えっちぼん)、アダルト本、18禁本とも呼ばれる。(wikipedia引用)
つまりえっちぼんである。
つい最近まで、エロ本はよく見かけるものだった。多くのコンビニで売られていたからだ。筆者は約4年ほどコンビニでバイトをしていたため、それはもう毎日がエロ本だった(?)。
現在では殆どのコンビニからエロ本は消えた。そこにあることがおかしいと糾弾されたからだ*1。筆者の意見として、この指摘は正しいと思う。そして何より、そこにこそコンビニエロ本本棚のエロさがあったと、今になって思う。
日常に溶け込むエロ本
エロ本は読者の性的欲求を刺激し、それを満たそうとするものだ。読者も欲求を満たしたいがために購入するのだから、購入してもらいたいのであれば必然、よりエロさを前面に出した形式にするはずだ。コンビニから姿を消す直前の数年は立ち読み防止のシールが貼られていたから、おそらくよりエロさを前面、つまり表紙に出す必要があっただろう。
ここで困るのがコンビニだ。コンビニはエロ本がそこにあることを世間に認識されたくない。なぜなら認識されたが最後、現在のようにその場から排除されるから。そんなものはコンビニに行ったことがあれば全員知っていると反論されるかもしれないが、そういう人も含め、実は殆どの人がコンビニにエロ本があることを認識できていなかった。
単純な話、飲食店の暇つぶし用本棚にエロ本が置かれていたら、誰でも二度見するだろう。美容室で用意されている雑誌の中に当然と言わんばかりの面構えでエロ本が踏ん反り返っていたら?
コンビニに置かれていたエロ本は、誰も二度見をしない、ありふれた光景の一部として日常に溶け込んでいたのだ。
なぜそんなことが可能だったのか。多くの理由がある中でも、やはり陳列方法が大きな役割を果たしていたと筆者は考える。
エロさを抑える陳列
コンビニのマガジンラックは、2列目以降の表紙がほぼ見えないようになっている。前列の雑誌に大体2/3ほど隠れる形だ。週刊少年ジャンプやその他人気雑誌であれば、縦1列横2列で展開が可能なため問題ないが、エロ本はせいぜい1雑誌1〜2冊の入荷だ。そうなるともう最前の1列目以外は表紙がほぼ見えないという格好になるのだ。
また、マガジンラック下部には大抵2段ほど平置きできる棚があり、実はここにもエロさを抑える工夫が施されている。
この平置き2段は、上部に入りきらない比較的入荷の早かったものから順に置いていく。有体に言えば売れ残ると下部に下げられるというわけだ。そしてその陳列方法は、雑誌の天側(上側)をラック正面から見て手前に向けるよう陳列するのである。つまり、ラックの下部・平置き2段を見下ろした時に目に入るのは雑誌の天側、大抵の雑誌であれば雑誌名が書かれている部分ということになる。
なぜこの陳列方法なのかをエリアマネージャーに質問したことがあるが、回答は「雑誌名が見えるから」とのことだった。大嘘である。真実はエロの隠蔽に違いない。
このように、実はコンビニに置かれたエロ本はその前面に押し出したエロさを半分も発揮することができていなかったのだ。
エロ本をめぐる思惑の交点
自社の雑誌をより魅力的にしようとする努力と、それを日常レベルまで引き下げようとする努力。その相容れない思惑が交わってできたのがコンビニエロ本本棚だったのである。片方は懸命に生きようとし、もう片方は懸命に生かそうとした。そして実際に、かなり長い期間彼らは一緒に生きていたのだ。
結果として彼らの関係は壊れてしまったが、思惑あるところにエロはある。出版社の目指していた形とは違うかもしれないが、あのエロ本達は確かなエロを我々に届けていたのである。
*1:単に売れなかったからかもしれない。
私流・他人の本棚鑑賞法
『エロい本棚アドベントカレンダー2022』4日目
はじめに
個人の本棚は、絶対的にエロい。
どんな人でも生きている以上、日々何かしらの影響を受けている。その人が何にどのような影響を受けたのか基本的に他人からは見えないし、本人が無自覚のことも多いはずだ。しかし人は、その一端を並べて他人からも見える現実に存在させているのだ。無ければ見えないのに、ある。それが本棚のエロさだ。
本題
個人の本棚は絶対的にエロいが、そこにあるエロをどのように見ているのかは人それぞれだ。ある本棚を見てAはエロいと感じ、Bはエロくないと感じるなんてことも当然ある。存在のエロさに揺るぎはないが、個人的にグッとくる点があるかは別ということだ。
そこで、筆者の場合は他人の本棚をどのような流れで見て、どこにエロさを感じているのか、大まかだが順に書き出してみた。性癖の開示である。
1.相手を信じる
これは無意識で行っていることだが、土台になるので割と重要な気がする。
どういうことかというと、“提示された本棚がその人のものではない”可能性があるということだ。特にSNS上では、理想・空想上の自分をあたかも現実かのように誤認させる投稿が散見されるため、可能性として捨てきれない。これは事実確認が困難な上、この可能性に囚われてしまうと先に進めない。ゆえに相手を信じることから始めるのである。
2.ざっと全体を見る
版型によって置く場所を分けていたり、ごちゃ混ぜだったり、横に積まれていたりと様々なレイアウトで本は並んでいる。事実は“その人がその本を所持していて、そのように置いている”ということのみだが、その事実から性格・生活を想像するのは楽しい。
例えば“ドラゴンボールの単行本を順不同で並べているけど、暮しの手帖は整然と並べてあるから普段はSNSで丁寧な暮らしを発信しているかもドラゴンボールは順不同だけど”という感じ*1。
また、本棚に空白があると嬉しい。漫画の途中の巻が抜けていたり、文庫や単行本が抜けたあとの空白を隣の本が斜めの姿勢でカバーしていたりすると、とても嬉しくなる。その本棚は活用されていて、並んでいる本は持ち主に影響を与え続けているのだと確認できるからだ。本棚の空白はその本棚が生きている何よりの証拠である。
3.本を一つ一つ確認する
並んでいる本は、少なくとも“持ち主が存在を知っている”本だ。中には未読のものもあるだろうし、読んだ本の解釈までは分からない。それでも、そこに並んでいなければ“持ち主が存在を知っている”ことさえ確信できなかったに違いないのだ。
筆者は大変気持ち悪いので、その人を好きもしくはその人に興味があった場合、並んでいる本を片っ端からリストにまとめている。
読んだ本への解釈は、その人と直接話せる場合を除けば、本人の発信を待つか生き様から読み取るほかない。もしくは既に言動に出ていて、本棚をみたことでその解釈を裏付ける形になったとしたら。それは大変えっちだ。
4.もう一度全体を見る
細部に注目した後にもう一度全体を見ると、はじめに見た時と質感が変わったように感じることがある。並べられた本それぞれの輪郭がはっきりとするような感覚。何か一つのものを時間をかけてまじまじと見ることはあまりない気がするから、普段は視界の解像度が低いのかもしれない。美術館でも同じ感覚になることがある。たまにやると楽しいからおすすめ。
おわりに
はじめてブログで文字を大きくしたりしたら大きくなったりして楽しかった。
本棚を見る視点は人によって異なるから、自分とは違う視点の話も聞きたい。
自分自身まだ語り切れていないこともある。幸いまだ空きはあるので、もう少し書けたらなあと思っております。
エロ本棚のことを語れて読める幸福。大感謝。
*1:『暮しの手帳』は過去「丁寧な暮らしではなくても」というキャッチコピーを打ち出していたので、『暮しの手帳』が丁寧な暮らしを推奨しているわけではない。名誉のために。
卍
劇伴が良い。作画が良い。原作とは違う構図で映すことにより、そのシーンで印象付けたい部分がより伝わるよう工夫されている。
個人的に好きなカットは、山本元柳斎重國がリューダース率いる「見えざる帝国」の下っ端に刃を振るったあと。原作では前面から 焼け跡→元柳斎→執務室の壁 となっていたところ*1、アニメでは 元柳斎→焼け跡→瀞霊廷 という構図になっている。宣戦布告という穏やかならざる事態の発生と、今はまだ平穏な瀞霊廷、総隊長である元柳斎を同時に映すことで、来る戦の規模の大きさや元柳斎の重責が窺える。また、それらの破壊によるカタルシスもより大きなものになるだろう。
では、前半の十数分は一体何だったのだろう。
一護の挨拶卍解あたりのことである。
対虚用の撒き餌*2を使ったとしか思えない虚の数、メインキャラクターの能力と名前の紹介、果てはキャラクターショーで司会のお姉さんが子供たちに声を出すよう促したかのようなお約束卍解(しかも能力的に必要無い)。
「みんな!一護くんたちがピンチだよ!一緒に応援して一護くんを助けてあげよう!」
「せーーーのっ!」
「「「卍っ解!!!」」」
夕方のお子様ターゲット時代の感覚が抜けていないのではないだろうか。
一護が放つ月牙天衝に合わせて「ファンの方々、大変長らくお待たせいたしました。十年ぶりの卍解、月牙天衝です。どうぞ」というナレーションが聞こえてきそうだった。要するに冷める。
驚いたのは、少なくとも私の観測範囲で、この前半部分について肯定的な意見が多いということだ。否定的な意見の方々が大人で、アニメ開始の盛り上がりに水を差したくないがために黙している可能性も大いにある。しかし、それにしてもこれを喜び、称賛する声がかなり大きいことに驚きを隠せない。
アニメ終了から十年、連載終了から六年ほど経ったにも関わらず尚も絶大な人気を誇るこの作品で、製作陣は何を恐れているのだろう。分かりやすい見せ場を作って視聴者を釣ろうとする必要が、果たしてこの作品にあるのだろうか。
私にとって最悪の想定は、製作陣がこの部分を純粋にカッコいいと思っていて、描きたくて描いている場合だ。事実として、ただカッコいいから良いとする声は前述のとおり多い。
馬鹿に向けて作っているのではなく、単純に製作側も視聴者もより分かりやすいものを嗜好しているのであれば、そんな地獄はほかにない。
正しいとか間違っているとかではなく。ただ地獄。
チェンソーマンを観よう。
『平家物語』1話
少女が男の手を引いて道をあけ、その場で起きていることを伝える。これだけで少女と男が親子であること、男が盲目であることがわかる。くすんだ色合いの町に禿の纏う赤装束が鮮烈に映り、娘を守らんと斬られた男の血はより深い赤。咲いては花首から落ちる沙羅双樹の花が深い赤の影を落とし、これから起こる戦乱を表す。ため息が出るほど美しい導入だ。山田尚子×吉田玲子の新作と聞いて楽しみにしていたが、この導入だけでかなり満たされた。
続く平家一門の宴会シーンもまた圧巻だ。白拍子(祇王)を見てにやつく清盛に対し、その正室である時子は表情を変えずにふふふと言う。それを聞いた清盛は時子のほうを向いて笑いかけ、これを受けた時子は、次は笑顔でふふふと笑う。下座にいる重盛がこれを見て冷や汗をかく。アニメでこんな言外の応酬は見たことがない。1秒も見逃してはならんと言われているようで背筋が伸びる。その後、フラストレーションの溜まっている時子は遅れてきた時忠に怒るが、清盛は時子の膝に頭をのせることでそれを宥める。エロ坊主に見えて実は切れ者であることがよくわかる。もうフェイタンとザザンの闘いを見るカルトの気持ちになってしまった。
人物の前に草花や虫を置く構図を多用し、時の経過をテンポよく表す。感情の昂るシーンほど表情を見せず、手や足で表現する手法は今作も健在だ。起こった事件は琵琶法師となった未来のびわが語り手となり、端的に語る。それによって各人がどういう感情を抱き、どう動くのかということのほうが重要だからだ。
冒頭で水に沈む一輪の沙羅双樹の花が描かれ、終盤で徳子の溺れる姿が映る。視聴者に学があれば顛末はわかっているが、学がなければ“あっ”と思う。私は“あっ”と思った。学があってもなくても楽しめる最高の作品である*1。
おすすめ情報
『平家物語』
目、口、手、足。映しすぎないことでより強調される見事な表現。沙羅双樹の花は赤い影を伴って落ち、沈む。カモメは1羽から2羽になり、天へ飛び立つ。多用される隠喩と画面の余白とが、視聴者を視聴者としてだけに留めまいと迫ってくる。私は山田尚子監督が本当に好きだ。
15年の歳月を11話でまとめているから時はズンズンと進んでいくが、それを語りはしない。過ごしている中の会話や行事、風景で表す。それが引っ掛かりなく、置いてけぼりにならない程度のバランスを保っている。このバランス感覚が何より凄い。
主人公のびわはオリジナルのキャラクターで、故あって平家に身を置く少女だ。元が『平家物語』だから、びわは視聴者が平家の人々を観るための視点的装置であるのだが、それだけに終始しない。びわ自身の背景があり、びわ自身の物語がある。『平家物語』であり、びわの物語でもあるというバランスが絶妙。
加えて言えば、『平家物語』は重盛の物語であり、徳子の物語であり、維盛、資盛、清経など、その時代に生まれ、生きた人々の物語である。大枠の中にある確かな個を掬い、“一族”ではなく“個々”の話として提示することで祈りは重みを増し、語り継がんとするびわの強さ、優しさは一層美しく映る。ひいてはこの物語を語り継いだ実際の琵琶法師さえも。
びわはそなたらに会って、そなたらを知った。
だから、見て聞いたものをただ語る。
『平家物語』を観て『片喰と黄金』を思わずにいられなかった。
届かなかった祈り。戦ではなく飢餓による死。栄華を極めた平家と対照的な暮らしをしていたアイルランドの少女が、カリフォルニア・ゴールドラッシュに乗じて大富豪になるべく旅立つ物語だ。
力がないからなんだ、動くか死ぬかの二択、質素で平穏な暮らしなどで満足するものか!というびわとは違う方向の強さでもって破天荒にガシガシ進む。
栄枯盛衰なれば一陽来復もまた...やろがい!という気持ちで読んでいる。未完ゆえ。
新年
三鷹駅から南に歩いていくと禅林寺という寺がある。太宰治と森鴎外の墓がある寺だ。山門が南に配置されており、敷地内北側に位置する墓所までぐるっと塀で囲まれているため、墓参で駅から歩いていく場合は一度連雀通りまで出なければならない。禅林寺の西側隣地には三鷹八幡大神社という神社があり、こちらは南北で通り抜けできる造りとなっているが、禅林寺と繋がる通路はないため、駅からぼーっと歩いているとこちらに迷い込み、塀を隔ててすぐそこに墓があるはずなのになかなか辿り着けないという間抜けな格好になる。私は間抜けなのでそうなった。
禅林寺は山門を入ると正面に庫裏が見え、庫裏向かって左手に本堂が配置されている。日本史か何かで寺院の伽藍配置云々など読んだ記憶があるが、時代・宗派によって異なり、なんだかよく分からないが考えられた配置らしいというぼんやりとした知識しか持ち合わせていないため、正面にあるものが一番偉そうに見えるけど本堂が西にあるということは西が偉いのだろうなどと考えていた。思えば私は寺を訪れたことがほぼなく、思い出せるもので中学生の頃修学旅行で京都に行った時と浅草寺くらいのものだから、なんだか異文化に触れるような気持ちになっていたのである。
今回禅林寺を訪れたのは太宰治の墓前で手を合わせるためだ。しかし自発的に墓参するのが初めてということと、何度か連れられて墓参した祖父の入っている墓所が塀に囲まれていない四方に開放されたものであったから、今回のような庫裏の向こう側にある墓所へ行く場合、住職か誰かに一声かけてから行くべきなのだろうかと初歩の段階で躓いた。結局聞かずに入って不審がられるのが一番面倒だと思い至り、庫裏と一体になっている寺務所へ向かったわけだが、この躓きに自身の社会性の無さを感じずにはいられない。
寺務所の受付で要件を伝えると「ここを出て右手に墓所へ通じる道がある」と教えてもらえた。ついでに一束百円で売られていた線香を購入したら「火をつけていくか」と聞かれ、一瞬戸惑ったが、ライターもなにも持参していなかったためお願いした。するとその職員は横に置いてあったカセットコンロに火をつけ、束の線香を束のままその火で炙り始めた。呆気に取られているうちに先端からススキ花火の如く煙を放出する線香の束を渡されていた。線香とはこういう火のつけ方をするものだったか、私は今までどのように火をつけていたか等と思考を巡らせながら、顔は平静を装い、礼を言って寺務所を出た。
その日は風が強く、右手に持った線香の束は燃料を仕込まれているのかと疑うほどの早さで灰になっていく。軽い気持ちで墓参にきたら、いつの間にか線香が全て灰になる前に目当ての墓を見つけなければならないゲームになっていた。
右に少し歩くと、本堂と庫裏を繋ぐ渡り廊下を潜るようにして通路があり、その入り口には“森鴎外 太宰治 墓所”と書かれた立て看板が設置されていた。墓一つ一つに番号が振られているようで、立て看板には森鴎外と太宰治の墓の番号が記されていた。
墓所に入ると、焦る必要などなかったほどあっさりと太宰治の墓は見つかった。さすがに文豪ともなると、特に何もない日でもウイスキーや缶ビールなどが供えられており、花立は新しい花で彩られていた。
五分の一ほど灰になった線香の束から若干焦げた包み紙を取り、線香皿にすべて寝かせたところで、そういえば線香は蝋燭に移した火で炙るのではなかったかと思い出した。こうなると暗に作法など気にする必要はないと言われているような気がして気が楽になったため、風で転がっていた供え物を置き直してから、しゃがんで手を合わせる。毎度考えるが、この手を合わせて目を瞑った際に何を思えば良いのかわからない。ただ、一人墓前にしゃがんで手を合わせるという行為そのものに何か憧憬のような念を抱いていたから、実は形だけで概ね満足しており「あけましておめでとうございます」と安直な挨拶だけして目を開けた。
年末年始感の無さをどうしたものかと思っていたが「あけましておめでとうございます」と口に出すだけで新年感が増すことに気が付いた。
もうすぐ無職だ。
宝くじの話
宝くじが外れた。初めて買ったロト7。
自分は運がいいなあと常々思って生きてきて、きっといつか宝くじで大当たりするか、よくわからないけど生活に困らない程度の金銭が勝手に降ってくるものだと確信していた。確信というのは本当に確信で、当然に宝くじが当たるし、当然に生活に困らないという確信だ。当然に当たるのであればなぜ今まで宝くじを買ってこなかったのかと問われそうだが、“当然に当たる”という確信は“今買ったら当たりそう”という直感に基づいて行動したらそうなるという確信であって、いつ買っても当然に当たるというわけではないのだから仕方がない。
そんな中、先日ついに“今買ったら当たるな”という時がきた。鳥の糞が頭に降ってきたのである。髪に付いた糞を拭き取りながら「これはなかなかないことだ!」とウキウキしていた。職場の先輩にそのことを話すと「今日はツイてるから宝くじを買った方がいい」と言われ、なるほど確かに今しかないなと思った。注釈を入れておくと、“運(うんこ)がつく”という意味不明なものを信じていたわけではなく、単純に珍事が身に起こったという点で今日はまだ何かあるぞという気持ちになり、どちらかと言えば不運な事態なのだから次は幸運が舞い込んでくるだろうという期待から、今しかないなという思考に至ったのである。こうして書くと“運(うんこ)がつく”くらい意味不明な論理だ。
結果は冒頭に書いた通りで、そのショックの大きさたるや。何かの出来事によって信仰していた神が実はいないということを痛感する信者のような気持ちになってしまった(知らんけど)。22年間で初めての挫折(と言いたいところだが、挫折した人は皆とても辛そうなので、これは本当に挫折ですか?と疑う気持ちもありつつ、しかし他に言葉を知らないから挫折という枠にこっそり入れてもらえたら嬉しいなという気持ち)だ。
当然だが、宝くじが当たることを確信している人が出来上がるまでにも過程が存在する。
私自身がそうなった経緯を目ぼしいものに絞って振り返ると、まず小学校低学年の頃、母に連れられて行ったショッピングモールでガラポン*1を初めて回したところ、たこ焼き機が当選した。その後数回同じガラポンに連れていかれ、その度に家電やらバッグやらを当てた。その頃から今の私はほぼ完成していて、アレはもう回せば当たるものだと思っていた(実際そうだった)。次は小学校高学年の頃、母がスクラッチでも買うかと言って人生初宝くじ売り場に連れて行かれた時のこと。売り場のおばさんに「何番目にする?」と聞かれ、一番上のものを頼んだ結果5000円が当たった。そのうちの3000円を私にくれた母は、今思うととても良心的だ。中学飛ばして高校の時には、私のやることなすことほぼ全てが人の所為になる時期があったし、全体通して何をしても自分に何かが跳ね返ってくることがなかった。大学受験もマークシートを適当に塗ったら合格した*2。大学の時には韓国旅行が当たり、就活をしなくても就職先が決まり、半不登校気味の生活でもなんだかんだ4年で卒業できた。加えてお金が勝手に増殖して奨学金も返済した。他にも細かいことを挙げればキリがなく、どうにも運だけで生きている気がするぞと思うに至ったのである。それに、歳を重ねる毎に大きなものが当たるようになっているし、となれば宝くじが当たるのもすぐだろうと確信したわけだ。確信の材料にしては心許ないと思う人もいるかもしれないが、それは感覚次第なので、あなたの感覚ではそうなのですねとしか言えない。
そんなわけで、長年かけて“いつか宝くじが大当たりする”という確信が形成されたのだが、今回でそれが裏切られたわけだ。しかし恐ろしいことに、このような論理的に破綻している意味不明信仰を持つ人(私)は、それが裏切られたとき、無意識に修正をかけようと試みるのである。修正は主に自身の考え方に対するもので、今回の事例であれば、割と先輩の発言をきっかけに乗せられた感があるので正常な状態ではなかった、混乱状態にあるなかでの直感はアテにならないので宝くじが当たらないのも無理からぬことだと言い訳を始めるのである。困ったものです。
困った話はもう一つあって、混乱状態の一部を切り離してその部分を混乱状態であったと反省する錯乱状態の人(私)が、それを切り離した今は正常なのだから、今宝くじを買えば鳥の糞が落ちてきた不運に相応の幸運、つまり相応の金銭が当たるのではないかなどと考えはじめ、よくわからない絵柄を指定するだけの宝くじを10口1000円分購入したところ、なんと15600円になって返ってきてしまったのである。これは確かに鳥の糞相応、やはり私は間違っていなかったなどと思うに至り、どうにも救い難い人間となってしまったわけです。