いろいろ

 前回の記事で「ガガンボは人類の敵であるか否か」という話を書いたところ、それに対して「ガガンボが人類の敵であるという根拠を書いてないじゃないか」という最もな指摘を受けてしまった。そんなものは知らないし私はガガンボの次に君が嫌い。

 

 週一で更新しているこのブログだが、これは「書きたくなったら書く」というスタンスで臨むと一生書かないためだ。やりたくなったらやるというのはそもそもやりたくないわけで、即ちやらないのである。これは経験則。

 このブログは文章を書くことへの耐性をつける目的で始めたわけだが、ガガンボの次に嫌いな彼が指摘したとおり文としての体裁が整っていないため、何にもなっていないというのが実際のところだと思う。

 何にもなっていないついでに、私が大学の4年間で読んだ本(小説や漫画を除く)の数を雑に数えてみたら約200冊ほどであった。何にもなっていなくてとても良い。それこそ、読んだ本それぞれについての要約や考察などを文にしてまとめていれば、何かにはなっていたかもしれない。

 

 ガガンボ君の他にも変な人はいて、例えば教職課程を進んでいたときの話や新書の要約などを書いてみてはどうかという提案を受けた。前者はともかく、後者は無理であるとここで回答しておく。新書は要約するまでもなくまとまっているので。

 教職課程を進んでいたときの話はなるほどと思ったが、単に私が脱落しただけであるし、何を書いたものかと悩んでしまう。

 少し音楽性の違い的な話をすると、歴史を教える上で「なぜ歴史を学ぶのか」ということを生徒に説明しようという講義があったのだが、そこで「映画の背景を理解できたら映画がもっと面白くなる」というようなことを言ったら批判されたことがあった。そもそも「なぜ歴史を学ぶのか」という問題は歴史を学んでいる人たちが向き合うべきものであって、これから歴史を学ぼうとしている生徒にそれを説いて何になるのかという思いがあったのである。

 つまり、学ぶことの意義を先に伝えてそこから学ばせていくのか、興味をもたせて彼らが勝手に学ぶうちにその意義を自分で見出していくのかという音楽性の違いが浮き彫りになってしまい、私は向いてなさそうだと考えたのである。

 一応断っておくが、これはどちらが正しいなどという話ではない。こういう議論をすること自体は好きであるが、単に教職という枠で見たときに、私は向いてないという話で、その枠に馴染めないのなら別枠に行きましょうねということだ。

 

 ところで(ところでという言葉はとても便利)先日映画『ジョーカー』を観た。良すぎて1日おいて2回観てしまったのだが、もう一回観たい。どこまで計算されているのかと思うほどに計算されていて、クラクラしてしまう。ネタバレを控えたい(ネタバレでどうこうという映画でもないが)ため、知り合いは全員観てほしい。バットマンについての知識は、あれば他の作品とつながる部分などもあるためそういった点で楽しめるが、無くとも単体として完成されているため、全く問題ない。

 この記事を書いている今日10/11は夏帆主演の『ブルーアワーにぶっ飛ばす』の公開日であり、無論これから観に行くわけである。先週の時点ではこの作品が映像復帰作品となるはずだったのだが、劇場に足を運ぶのはなんと今週3回目で、既に映像復帰してしまっている。ジョーカーも年1回観たい作品などと言っておいて既に3回目を観に行こうかと思っている。嘘しかついていない。ブルーアワー楽しみ。