宝くじの話

宝くじが外れた。初めて買ったロト7。

自分は運がいいなあと常々思って生きてきて、きっといつか宝くじで大当たりするか、よくわからないけど生活に困らない程度の金銭が勝手に降ってくるものだと確信していた。確信というのは本当に確信で、当然に宝くじが当たるし、当然に生活に困らないという確信だ。当然に当たるのであればなぜ今まで宝くじを買ってこなかったのかと問われそうだが、“当然に当たる”という確信は“今買ったら当たりそう”という直感に基づいて行動したらそうなるという確信であって、いつ買っても当然に当たるというわけではないのだから仕方がない。

そんな中、先日ついに“今買ったら当たるな”という時がきた。鳥の糞が頭に降ってきたのである。髪に付いた糞を拭き取りながら「これはなかなかないことだ!」とウキウキしていた。職場の先輩にそのことを話すと「今日はツイてるから宝くじを買った方がいい」と言われ、なるほど確かに今しかないなと思った。注釈を入れておくと、“運(うんこ)がつく”という意味不明なものを信じていたわけではなく、単純に珍事が身に起こったという点で今日はまだ何かあるぞという気持ちになり、どちらかと言えば不運な事態なのだから次は幸運が舞い込んでくるだろうという期待から、今しかないなという思考に至ったのである。こうして書くと“運(うんこ)がつく”くらい意味不明な論理だ。

結果は冒頭に書いた通りで、そのショックの大きさたるや。何かの出来事によって信仰していた神が実はいないということを痛感する信者のような気持ちになってしまった(知らんけど)。22年間で初めての挫折(と言いたいところだが、挫折した人は皆とても辛そうなので、これは本当に挫折ですか?と疑う気持ちもありつつ、しかし他に言葉を知らないから挫折という枠にこっそり入れてもらえたら嬉しいなという気持ち)だ。

当然だが、宝くじが当たることを確信している人が出来上がるまでにも過程が存在する。

私自身がそうなった経緯を目ぼしいものに絞って振り返ると、まず小学校低学年の頃、母に連れられて行ったショッピングモールでガラポン*1を初めて回したところ、たこ焼き機が当選した。その後数回同じガラポンに連れていかれ、その度に家電やらバッグやらを当てた。その頃から今の私はほぼ完成していて、アレはもう回せば当たるものだと思っていた(実際そうだった)。次は小学校高学年の頃、母がスクラッチでも買うかと言って人生初宝くじ売り場に連れて行かれた時のこと。売り場のおばさんに「何番目にする?」と聞かれ、一番上のものを頼んだ結果5000円が当たった。そのうちの3000円を私にくれた母は、今思うととても良心的だ。中学飛ばして高校の時には、私のやることなすことほぼ全てが人の所為になる時期があったし、全体通して何をしても自分に何かが跳ね返ってくることがなかった。大学受験もマークシートを適当に塗ったら合格した*2。大学の時には韓国旅行が当たり、就活をしなくても就職先が決まり、半不登校気味の生活でもなんだかんだ4年で卒業できた。加えてお金が勝手に増殖して奨学金も返済した。他にも細かいことを挙げればキリがなく、どうにも運だけで生きている気がするぞと思うに至ったのである。それに、歳を重ねる毎に大きなものが当たるようになっているし、となれば宝くじが当たるのもすぐだろうと確信したわけだ。確信の材料にしては心許ないと思う人もいるかもしれないが、それは感覚次第なので、あなたの感覚ではそうなのですねとしか言えない。

そんなわけで、長年かけて“いつか宝くじが大当たりする”という確信が形成されたのだが、今回でそれが裏切られたわけだ。しかし恐ろしいことに、このような論理的に破綻している意味不明信仰を持つ人(私)は、それが裏切られたとき、無意識に修正をかけようと試みるのである。修正は主に自身の考え方に対するもので、今回の事例であれば、割と先輩の発言をきっかけに乗せられた感があるので正常な状態ではなかった、混乱状態にあるなかでの直感はアテにならないので宝くじが当たらないのも無理からぬことだと言い訳を始めるのである。困ったものです。

困った話はもう一つあって、混乱状態の一部を切り離してその部分を混乱状態であったと反省する錯乱状態の人(私)が、それを切り離した今は正常なのだから、今宝くじを買えば鳥の糞が落ちてきた不運に相応の幸運、つまり相応の金銭が当たるのではないかなどと考えはじめ、よくわからない絵柄を指定するだけの宝くじを10口1000円分購入したところ、なんと15600円になって返ってきてしまったのである。これは確かに鳥の糞相応、やはり私は間違っていなかったなどと思うに至り、どうにも救い難い人間となってしまったわけです。

*1:正式名称知らず、ガラガラして玉を出すやつ

*2:その程度の大学であることは間違いない