脊髄文章

学校に行かなくなった(行く必要がなくなった)途端、風邪やインフル等にかからなくなり、病は気からなどというのは本当なのかもしれないと思ったのだが、外出していないのだから病にかかりにくいのは当然であった。

 

三流大学にいながらゼミを半年ほどで辞めた私に卒論などというものはないのだが、卒論のない大学四年生の暇さというのは尋常ではない。賢い人ならばその暇を利用して資格の一つや二つ取ろうとするのだろうが、賢くないから今この状態にあるわけだ。

ただ、課されたものに対しては意欲が湧かず、課されていないものにこそ意欲が湧いてしまうタイプの私は、なぜか何かしら卒論的なそれを書こうと思ってしまった。

そして12月も終わりに差し掛かり、もうすぐそこに卒論提出の締切が見えている現在(勝手に作成しているだけだから締切も何もないのだが)、もはや自分が何をしているのかわからなくなり、今これを書いているのは完全に逃避である。 

先行研究を並べ、それらで述べられている事柄とどこからか拾ってきたデータを根拠に考察を述べるわけだが、結論はかなり限定された状態でのみ意味を持つようなもので、現実のものとして考えると難しいですね、などと誤魔化す他ないようなものであった。

こうなってくると、意欲の源泉であったはずの「課されいていない」という事実を理由に、執筆を断念してしまおうかという思いに駆られる。そもそもこれを読む人間といえば私くらいのもので、大学の教授やらに見てもらうようお願いする予定が無かったのはおろか、このブログでその存在を公表する気も無かったのである。完全に趣味の枠で書いているのだから、それを断念することに何も問題などはないのだが、するとあとに残るのは、論文すら書ききることができないただの引きこもりということになる。

乱雑に様々読み漁り、文字を追って満足していた結果こうなっており、ここにきてショーペンハウアーの言が頭に浮かんでしまう次第となった。

ただ、私は21年の成果として、これらの事実を受け流す言い訳の方法を体得している。自然と、誰に聞かれたわけでもないのに自身の落第の歴史を脳内に並べ、これだけ落第してきた人間が何事かに意欲を向けたというだけで上出来なのではないか、という論理を構成し、それを自ら晒すことでその消化を図るといった具合だ(これがそれ)。

落第忍者乱太郎である。

落第忍者乱太郎(1) (あさひコミックス)

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ところで、向田邦子の『隣の女』を読んだのだが、物語全体のことは別として、性交の際に上野から谷川岳までの駅名を男に言わせ、谷川岳が近づくにつれて感情も盛り上がるという描写が、表現としては理解できるが感覚的に理解できずとても面白かった。

そういう予定のある方は是非この方法を実践してほしいと思う。

新装版 隣りの女 (文春文庫)

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