はなしが散らかった

4月から社会人になるため、最近日雇いの人足生活を始めた。これからは月給制という悠長な生き方になってしまうため、今のうちにその日暮しのような生活をしたいと思ったのである。 

苦役列車 (新潮文庫)

苦役列車 (新潮文庫)

  • 作者:西村 賢太
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2012/04/19
  • メディア: 文庫
 

人足生活というと、どうしても西村賢太の『苦役列車』がちらついてしまう。ああいう生活に憧れがあるのは確かで、全くそれに影響されていないというのは嘘になるが、しかしそうでなくても、抱えているものを放り出してその日暮らしをしたいと思っている人はわりと多いのではないかと思うし、私もその一人だ。なんならホームレスになりたい気持ちもあるし、そういう感情を現実に落とし込んだ結果家を出るみたいなところもある。

生きるという目的のために負担を排除していく感じはミニマリストと言っても差し支えないのではということで、人に説明するときは「ミニマリズムに感銘をうけたので家をでます」と説明している。

「技術の進歩によって人々の職が奪われる」という話をよく耳にする。現在絶賛奪われ中だと思うが、今後も単純な作業から奪われていくのだろう。現在はまだ、機械のかゆいところを人間がかいてあげるといった具合で荷役などが行われているが、これもそのうち全自動になるはずだ(知らんけど)。何の話かというと、つまり倉庫内軽作業ができるのは今だけだということだ。将来の心配をしつつ、期間限定の品や安くなっているからという理由で要らぬものを買ってしまうタイプの人は、早くその無駄な思考を放棄して期間限定の倉庫内軽作業に従事すべきだ。ピラミッドの当時の建築方法を現代では経験できないのと同様に、近未来では倉庫内軽作業は経験できないかもしれないのだから(?)。

 

負担の軽減という話と若干つながるが、先日自室に散乱していた本や漫画を選別し、古本屋にぶん投げた。単純に引っ越す際に持っていく分を選別したという理由もあるが、それ以上に、読み返しもしない本で部屋を圧迫しているのは正気じゃないと気付いてしまったことが大きい。

その中で、中村文則の文庫をどうしようかと迷ってしまった。というのも、私が思うに彼の作品は『何もかも憂鬱な夜に』以前と以降とで、作風というか雰囲気が違うのである。私としては以前のほうが好きで、たまに読み返すのは毎回そちらであった(読み返しやすい厚さというのもある)。そのため、読まないものは投げれば良いのではということになるのだが、同じ作家の書いたものである以上通底しているテーマは同じだったりするから、そのうち読み返したときに新たな気付きなどがあるかもしれない、などと考えてしまうのである。

悩んだ結果、これは段ボールを捨てられないタイプの人と同じ思考だなと思い至り、一度投げてしまおうということになった。残ったのは『何もかも憂鬱な夜に』以前の作品だ。

何もかも憂鬱な夜に (集英社文庫)

何もかも憂鬱な夜に (集英社文庫)

 

こうして、なんやかんやで部屋の本や漫画はかなり減ったわけだが、その数日後になんと太宰治の文庫版全集を頂いてしまった。

太宰治全集 全10巻セット (ちくま文庫)

太宰治全集 全10巻セット (ちくま文庫)

 

古本屋から頂いた新品の全集で、投げた本の買取価格兼就職祝い兼引っ越し祝いとのことだ。やはり文庫版でも全集が本棚にあると嬉しくなる。いつか書簡や日記の収録された完全版も揃えられたらいいなと思う。

文庫版全集を頂いたことで、これまで何度も読んだ新潮文庫版の太宰作品が実質的に不要となったのだが、これは思い入れが違うため保管することにした。もはや歴史資料のような様相を呈していて、歴史ですねといった感じ。

 

歴史というか時の流れの早さを感じるものとして、最近だと『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝』が放送されていて、まどマギ放送当時を思い出したりしている。ちなみに、同年(2011年)には『映画けいおん!』や『八日目の蝉』『SUPER8』などが上映されていたらしい。他では、私が読んだ最初で最後のブーン系小説『先生の戦う生徒指導のようです』などもある。これは本当に苦行なので是非読んでほしい。

 

最近は映像作品にあまり触れない生活をしている(マギレコとドロヘドロは観ている)。観始めればズルズルと何時間も観るのだろうが、観始めるまでがしんどい状態だ。そして結局『天気の子』を観ていない。一度観ようと映画館まで足を運んだのだが、財布と買ってあった鑑賞券を家に忘れたため帰宅した。

ただ、『M-1グランプリ2019』の決勝において、かまいたちがそれを自慢に変える術を教えてくれたため、私はなんだかもう『天気の子』を観ていないことが誇らしい。かまいたちはネタだけで見れば、芸人の中で今一番と言っていいくらい私の中でキている。

今回のM-1最終決戦で披露した「トトロを観たことがない」ネタも、前回のM-1で披露した「もしタイムマシンがあったら」というネタも、はじめは首を傾げてしまうような主張が、山内のそれっぽい論理と真顔とで、確かにと頷いてしまう。タイムマシンに関してはもう山内は正しい。

そんなかまいたちのネタで一番好きなのは「万引き」だ。

残念ながらこの動画ではこのネタの一部しか観ることができないのだが、ここだけでもかなり面白い。自身に不利な“言った”という事実を誤魔化すために、“客観的に見て自分が言ってるっぽい”とあえて一部を肯定する姿勢。言い訳をするなら「断じて俺は言ってない。他の誰かが万引きの現場を見てたのかもしれんな」などと言えば良いものを、咄嗟のことで頭が変に回転し、上手く言い訳しているつもりが全く機能していないという可愛さ。それに対する濱家の「最後の言葉さえ言わんかったら助かると思ってる?」というツッコミも最高だ。「トトロ」や「タイムマシン」で見せた相手を頷かせる論理ではなく、こねくり回した論理から焦りが窺えるという、人間心理の面白さとでも言いたくなる素晴らしいネタだ。

 

ところで話は戻るが、近いうちに一人暮らしを始めるため、生活に余裕のあるみなさんから新居祝いなどもらえたら嬉しいなと思っている。タオルとか。こんなんなんぼあってもいいですからね。

脊髄文章

学校に行かなくなった(行く必要がなくなった)途端、風邪やインフル等にかからなくなり、病は気からなどというのは本当なのかもしれないと思ったのだが、外出していないのだから病にかかりにくいのは当然であった。

 

三流大学にいながらゼミを半年ほどで辞めた私に卒論などというものはないのだが、卒論のない大学四年生の暇さというのは尋常ではない。賢い人ならばその暇を利用して資格の一つや二つ取ろうとするのだろうが、賢くないから今この状態にあるわけだ。

ただ、課されたものに対しては意欲が湧かず、課されていないものにこそ意欲が湧いてしまうタイプの私は、なぜか何かしら卒論的なそれを書こうと思ってしまった。

そして12月も終わりに差し掛かり、もうすぐそこに卒論提出の締切が見えている現在(勝手に作成しているだけだから締切も何もないのだが)、もはや自分が何をしているのかわからなくなり、今これを書いているのは完全に逃避である。 

先行研究を並べ、それらで述べられている事柄とどこからか拾ってきたデータを根拠に考察を述べるわけだが、結論はかなり限定された状態でのみ意味を持つようなもので、現実のものとして考えると難しいですね、などと誤魔化す他ないようなものであった。

こうなってくると、意欲の源泉であったはずの「課されいていない」という事実を理由に、執筆を断念してしまおうかという思いに駆られる。そもそもこれを読む人間といえば私くらいのもので、大学の教授やらに見てもらうようお願いする予定が無かったのはおろか、このブログでその存在を公表する気も無かったのである。完全に趣味の枠で書いているのだから、それを断念することに何も問題などはないのだが、するとあとに残るのは、論文すら書ききることができないただの引きこもりということになる。

乱雑に様々読み漁り、文字を追って満足していた結果こうなっており、ここにきてショーペンハウアーの言が頭に浮かんでしまう次第となった。

ただ、私は21年の成果として、これらの事実を受け流す言い訳の方法を体得している。自然と、誰に聞かれたわけでもないのに自身の落第の歴史を脳内に並べ、これだけ落第してきた人間が何事かに意欲を向けたというだけで上出来なのではないか、という論理を構成し、それを自ら晒すことでその消化を図るといった具合だ(これがそれ)。

落第忍者乱太郎である。

落第忍者乱太郎(1) (あさひコミックス)

落第忍者乱太郎(1) (あさひコミックス)

 

 

ところで、向田邦子の『隣の女』を読んだのだが、物語全体のことは別として、性交の際に上野から谷川岳までの駅名を男に言わせ、谷川岳が近づくにつれて感情も盛り上がるという描写が、表現としては理解できるが感覚的に理解できずとても面白かった。

そういう予定のある方は是非この方法を実践してほしいと思う。

新装版 隣りの女 (文春文庫)

新装版 隣りの女 (文春文庫)

 

 

読書記録

最近読んだものついて、かなり雑にあれこれ書く。

 

先日『今村夏子について』という記事を書いたのだが、実はその時点でまだ読んでいない今村夏子の作品があった。『星の子』だ。

星の子

星の子

 

 これを読んだあと、過去の記事を修正もしくは加筆すべきかなという気持ちになったのだが、自分の書いたものを読み返すのが億劫だからやめた。

あらすじ

主人公・林ちひろは中学3年生。出生直後から病弱だったちひろを救いたい一心で、両親は「あやしい宗教」にのめり込んでいき、その信仰は少しずつ家族を崩壊させていく。

 あらすじが内容を誤解させるタイプのものだった。新興宗教の怖さ的なそれではなく、親が信じているものと世間との隔たりや思春期のよくある悩みなど、多くの人が経験しているであろう普通の葛藤が丁寧に描かれていた。

新興宗教という忌避されがちなものに嵌る家族が題材となると、読み手はどうしても身構えてしまう。家庭が崩壊し離散するのではないか、戦場ヶ原ひたぎ的なアレになるのではないか等。しかしこの作品で描かれている家族は、子への愛情という意味ではむしろ多くの家庭よりも幸福そうにさえ見えた。なにより主人公の両親は、彼女をその信仰から開放しようとしているのではないかと思わせるような言動を見せるのである。それができる人間は多くないだろう。

あらすじ言うところの“その信仰は少しずつ家族を崩壊させていく”というのは、信仰対象が新興宗教でなくとも成り立つことである(資本主義にも国家にも置き換えられる)。我々が身構えてしまうそれも、中を覗いてみれば他と変わらないことのほうが多いのではないかという視座に立った作品だと思う。

 

 『おらおらでひとりいぐも』

おらおらでひとりいぐも 第158回芥川賞受賞

おらおらでひとりいぐも 第158回芥川賞受賞

 

 図書館でたまたま目に入ったため読んだ。

筆圧がすごい。これが処女作だというのが信じられない。

ノローグであるのに、過去の自分、未来の自分、急進的な自分、保守的な自分等さまざまな自分が登場し、さらには祖母や亡き夫といった死者までもが語りかけてくるため、終始とても賑やかだ。そして東北の訛りと標準語の入り混じった文と形式の自由さによって、より主人公の心情がダイナミックに伝わってくる(少し過剰で苦手なところもあるが)。

内容を簡単にまとめるなら、誰しもがもつ不安や後悔を74歳の女性が深く考えるというものだ。読み手はその脳内を覗くことになるわけだが、可笑しくて悲しくなってしまう。もともとそんな自信はないのだが、これを読んで70歳まで生きるのは無理だと感じた。

 

『Didion 03』

Didion 03

Didion 03

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: エランド・プレス
  • 発売日: 2019/12/13
  • メディア: 雑誌
 

 演劇特集で、例によって私の好きなブログを書いている人が寄稿されたと聞いたため読んだ。

私が積極的に演劇を見るようになったのはここ1年半ほどで、8公演しか観ていない。そのため、まだ演劇ならではというか演劇の一番の魅力的なものを理解できておらず*1、観て感じる他ないのだろうと思いつつも、つい演劇論的なものを読んでしまうのである。そして今回もまた、実際に観るしかないという結論に落ち着いた。

「生」のエネルギー、肌で熱量を感じられるといったことはよく聞くため、そういう演劇にこれから出会えると良いなと思うわけだが、一番気になるのは観劇の作法だ。

私の少ない観劇歴から、どうやら観客にはリアクションが要求されているように思う。生身の役者が観客と同じ空間で演じている以上、たしかに無反応は堪えるだろうからその意味で納得できはする。ただ、間違いなく感性の違う人がいて、その人の笑い声によって観ているそれがなにか別物のように思えてしまうことが多い。感性が違うのだから笑ってしまうのは仕方のないことであるが、観客のリアクションと舞台上で行われる演技の両方が合わさって演劇なのだとすれば、私から観たそれは“笑えないシーンで笑い声が響く不気味な作品”という印象になるのだ。舞台上で行われる演技単体で演劇なのだとすれば、その笑い声は雑音でしかない。雑音は排したいのだが、そこでまた感性の違いと役者と同じ空間にいるという問題にぶち当たる。

これは初めて観劇したときからずっと思っていたことで、解決策が見つからない。もしかしたら私の知らない作法があるのでは、という気持ちになっているため、知っている人がいたら教えてください。

 

その他

たてがみを捨てたライオンたち

たてがみを捨てたライオンたち

  • 作者:白岩 玄
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2018/09/26
  • メディア: 単行本

 

 

サピエンス全史(下)文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史(下)文明の構造と人類の幸福

 
早稲田文学増刊 女性号 (単行本)

早稲田文学増刊 女性号 (単行本)

 

 

ムック本はいいですね。

 

*1:面白い作品は多くとても楽しめるのだが、演劇特有の面白さが理解できていない

文学フリマの日と最近

文学フリマに初めて行った。コミケを筆頭とする同人即売会には以前から興味が合ったのだが、来場者数の多さやブースの多さなどを考えただけで疲れてしまうため、今まで一度も行ったことがなかった。その点文学フリマは比較的快適そうに見えたのと、私の好きなブログを書いている人が寄稿した同人誌が出るということもあり、せっかくだからと足を運んだ次第だ。

 

会場の東京流通センターまでは東京モノレールを利用したのだが、景色を楽しめる座席配置は何歳になってもワクワクする。過ぎていく景色の中で、突然メンチを切ってくる愛育病院の良さ。浜松町駅から東京モノレールを利用する際、進行方向むかって左側の窓から外を眺められる座席に座ることを強く勧めたい。

そして会場の中で最も目を引かれた作品はこれ。

表紙が良すぎたため購入した。昼ビール×食堂、悪いわけがない。

帰りのモノレールでこれをパラパラめくっていたら、どうしても食堂でビールを飲みたくなってしまい(しかもちょうど昼過ぎ頃だった)、そのまま同書で紹介されていた浅草の水口食堂に向かう。

水口食堂で注文したのは、いり豚定食とサッポロ黒ラベルの小瓶。米とビールを同時にいただくことになると気がついたのは、それらが運ばれてきた後だった。食堂と言えば定食で、二十歳を越えているからビールを頼んだのだが、その二つは両立できないようだ。初めての昼ビール×食堂は、模範的な間違いを犯し、育ちの良さが透けた形となった。 

帰宅後、今回の目的の一つだった『生活の途中で』を読む。

miwa261.stores.jp

Nookさんの『2月6日』が印象に残っている。青春という言葉をいつまでも飲み込めない私だが、部活帰りのサイゼリヤに憧れていることや、ピカちゃんとピカちゃんのお母さんが菅田将暉のことを将暉と呼んでいるといったエピソードを読むと口角が上がる。それと同時に、そこに青春などとつまらない名前をつけずに暮らしてほしいと思ってしまうわけだが、これは完全にわがままです。

 

文学フリマに行った日から今日まで、何をしていたのかイマイチ思い出せなくて唸っている。昨日か一昨日に、人の家でカレーとビールを飲みながら数え切れないほど観たはずの京アニの『日常』をまた観ていたことは覚えている。あとストリートファイターのアレ。アレは面白かったので続きを観ようと思っている。

もう12月になってしまったし、もう少し記憶に残る日々を過ごしたいものだ。

今村夏子について

商店街という単語を見たとき、人々はどのようなイメージをするだろうか。私は京都アニメーションのアニメ『たまこまーけっと』に登場するうさぎ山商店街が一番に浮かぶ。アーケードの下で多くの人が行き来しており、花屋や肉屋などがあり、そして向かい合った餅屋がある(その餅屋の娘はとてもかわいい)。もしくは、大型商業施設の登場で寂れてしまったシャッター街をイメージする人もいるだろう。そこは人通りが少なく、賑わっていた頃を想像して悲しい気持ちになるかもしれない。現在か過去かの差はあれど、そこには人々が確かにいて、そしてその多くは明るい雰囲気ではないだろうか。

さて、そこで今村夏子の『父と私の桜尾通り商店街』だ。

父と私の桜尾通り商店街

父と私の桜尾通り商店街

 

今村夏子の作品を一つでも読んだことのある人は、この表紙を見て溜め息をつくだろう。 前述したような商店街のイメージが、その下の今村夏子という著者名を目にした途端、微妙にパースの狂った、なんだか不気味なイメージに変わる。そこには確かに人がいて賑わっているが、しかしどことなく不穏な空気がそれらを包んでおり、アーケードの一番奥をよく見てみると、そこにはむらさき色のスカートを履いた不気味な女が立っているかもしれないと思ってしまう。

むらさきのスカートの女

むらさきのスカートの女

 

今村夏子の作品は、私たちが日常のなかで見ようとしないものや、できれば見たくないものをヌルっと見せてくることが多い。それは公園でキャッキャとはしゃいでいる子どもが笑顔で近づいてきて、手に握った虫を見せてくるアレに似ている。それが虫なら、「やめて」と言って追い払うことも可能だろう。しかし今村夏子が見せてくるのは人間だ。そしてそれは確かにそこにいるのに、無意識に見ないようにしているものであり、それを見せてくる彼女からは嫌がらせの感じがない。ただそこにいて、いたから「いたよ」と言って見せてくるのだ。私たちは溜め息をつく他ない。

 

「読めば世界が変わって見える」などという胡散臭い広告を目にすることがしばしばある。私はそういう広告がついていると購買欲が減退する。「見え方が変わった世界にいてもなお以前の世界の使い古された広告文しか書けないのなら、果たして世界の見方を変える必要はあるんですか」とよくわからない言葉を並べてその本の前を通り過ぎるわけだ。

今村夏子の作品は、読後数日の間は風景がどんよりするようなものが多いが、しかし人間の脳は便利なもので、また私たちは今村夏子ではないため、その後は以前の風景に戻る。ただ、ふとした瞬間、例えば

こういう話を見た時に、私たちは『あひる』を思い出さずにはいられない。

あひる

あひる

 

このように、今村夏子の作品は「世界が変わって見える」わけではないが、変わらない世界における日々のワンシーンで「いたよ」と囁いてくるような、そんな気味の悪さがある。気味が悪いと思ってしまうのは、前述した通りそれを見ないように生活しているからであり、言い換えれば「普通」という勝手に作った枠の中で生きているからだ。今村夏子の作品はそういう枠から外れた者の視点で描かれ、そしてそういう者たちの日々は崩壊するでもなく、続いていく。彼女が見せてくるのは私たちと同じ人間なのだから当然のことだ。

 

抽象的な表現でわかりにくい文になってしまったかもしれないが、ともあれ現代に生まれた以上今村夏子を避けて通るべきではないし、一度読んでみることを勧めたい。無論、ここに書いたのは私の所感であるから、別の感じ方をする人もいるだろう。そういう人の話を聞きたいというのも、また今村夏子を勧める理由の一つであることを白状しておく。

劇団癖者『元カレ殺人事件』

ネタバレ含む。

 

 

あらすじ

もぅマヂ無理。 彼氏とゎかれた。

ちょぉ大好きだったのに、ゥチのことゎもぅどぉでもぃぃん だって。

どぉせゥチゎ遊ばれてたってコト、ぃま手首灼ぃた。

身が焦げ、燻ってぃる。 一死 以て大悪を誅す。

それこそが護廷十三隊の意気と知れ。

破道の九十六『一刀火葬』

 主人公のあいはおそらく大悪を誅すという気持ちではなかっただろう。「最後の人になりたい」などと言っていたような気がするが(うろ覚え)、私には彼女の本心がわからない。

このわからなさを強くしたのは、冒頭であいがしょうくんに電話をかけるシーンだ。しょうくんは電話に出ず、あいは悲痛な表情で留守電を残す。そしてそれが終わると、真顔で前髪を直して薬品を片手に自撮りをするのだ。その時の表情の変わり方が恐ろしく、一体どこからどこまでが本心なのか分からなくなった*1。このシーンを見たとき、あいはしょうくんにその写真を送るのだと思っていた。そうであれば前髪を直すのも納得がいく。しかしすぐにこれはSNSに投稿するためのものだったことが判明するのである。

そんなあいの不明な動機によって集められたしょうくんの元カノたち。彼女たちが困惑しつつも次第にしょうくんを殺す計画(計画してないが)に乗り気になり、奇妙な連帯感が生まれていく様は見ていて面白かった。人を殺すというネガティブな方向に向かっているはずなのに、計画のガバガバさやそれぞれの個性がそれをコントにしてしまう。こういう微妙な均衡によって進んでいく展開はとても好きだ。

 

中盤以降、元カノたちは黒魔術によってしょうくんを召喚しようとする。それは作中最もイカれていた掃除のおばさん*2によって提案されたものであり、彼女たちはその熱意に圧されて実行する。そして実際にこれは成功してしまい、召喚した後もまさにコントであったが、しかしこの召喚が成功してしまったがために彼女たちの明日は暗いものになったと私は思う。

この黒魔術の真価は召喚ではなかった。それは間違いなく人に害を為す呪術であり、その効果はしょうくんだけではなく、たまたましょうくんと一緒に召喚された彼の今カノ、そして召喚をした元カノたちにも発現した。それは最後に今カノがしょうくんをナイフで刺してしまうところに現れている。

彼女がそのような行動に走った原因は、例えば独占欲だったり、行き過ぎた愛情だったりしたかもしれないが、元カノたちの冗談半分の黒魔術で召喚された後の展開によって、その感情がより濃くなってしまったであろうことは否定できないはずだ。仮にそれが彼女の行動と関係なかったとしても、事実としてその後に彼女はしょうくんを刺したのであり、その報を受けた元カノたちがそれをどう受け止めるかは想像に難くない(知らんところで当然の報いを受けたと思えるのであれば、元カノたちはしょうくんと本質的に変わらない)。

このように、この作品はしょうくんが刺されて終わるため、元カノたちの明日を考えるとモヤモヤのほうが強い。今カノに至っては間違いなく逮捕だ。ただ、それは決してこの作品を非難する理由にならない。坂元裕二脚本の舞台『またここか』において、小説家である根森はこう語っている。

小説に書くのは二つのこと。本当はやっちゃいけないこと。もうひとつは、もう起こってしまった、どうしようもなくやりきれないことをやり直すってこと。そういうことを書く。そこに夢と思い出を閉じ込める。それが、お話を作るっていうこと。

 『元カレ殺人事件』はこういうお話だったのだろうと思う。 やってはいけないという正論で収まらない感情というものはある。それをどうにか乗り越えて、振り返ってみた時になんだか笑えるというのは、ありきたりだが助かるものだ。元カノたちは同じ悩みを持つ(持っていた)現実の人たちに代わって元カレにビンタをしたのであり*3、そして今カノは彼を刺したのだろう。現実でそれをやってはいけない(できなかった)から。

そう考えた上で改めて元カノたちの呪われた明日を思うと、相対的にそれをできなかった(そうしないことを選択した)現実の人たちの今が照らされ、必然的にその過去が肯定されていることに気が付く。

 

この作品のメインターゲットはそういう層なのだと思う。私は登場人物の誰にも共感できなかったため、終始理解できない理由で理解できないことが行われているという感じだった(そういう意味で楽しめた)。

好意は相手からすれば勝手なものであるし、それを相手に向けたとき自分の理想と違う反応が返ってきたとしても、それを責める権利は無いと思っている。

しょうくんの場合、彼自身の欲のために元カノたちの理想像を演じていて、それに疲れたら(飽きたら)乗り換えていたのだろう。元カノたちは彼女たち自身の欲のためにそれが現実であると思い、信仰した。信仰は自由だが、それが現実でないと分かった時、悲しみこそすれ、怒るのはお門違いだ(そうと分かっていても抑えられないのだろうが)。どっちもどっちじゃないですかと思ってしまう。

その頭では分かっていても抑えきれない怒りの経験があれば、代弁者としてこの作品を称賛していたかもしれない。面白かった。

*1:ちなみに私はこのシーンが一番好き

*2:おばさんと呼ぶのが申し訳ないほどに美人

*3:森ガールが結局彼にビンタできなかったシーンも好き

知らん人のnoteについて

note.mu

これは、私から見ていつまでも知り合いの知り合いという距離感の変わらない知らない人が書いた記事だ。

端的な感想は「酒の席の話は酒の席で消化してくれ」。以降は私が自分の考えを整理するための文になる。

 

まずこの記事の内容を整理する。

  • 人々は他人の人生に干渉しすぎており、それでいて不寛容である
  • 過度に干渉しないでほしいし、自分も人に対して過度に干渉はしない
  • 自分の精神に悪影響なものを切り離すことで精神安定を図る
  • 多様性が今よりも尊重された世の中は相互不干渉・寛容型社会になるのでは
  • 過干渉・不寛容型社会と多様性は相反するからしんどい
  • 不干渉・寛容型社会に住みたい

流れとしてはこのような感じだろうか。

抽象的な語が多いため、彼と解釈が一致しているか不安だが、何かと炎上しがちで、全く関係のない誰かが誰かを叩いている社会はとても住みにくいし、しんどいから変えていきたいですねということだと思う*1現代社会で毎日のようにどこかで叫ばれているであろうものだ。つまり多くの人がこう思っていて、それでいて解決していない問題ということになる。そして彼は、これらが解決もしくは改善された(多様性が尊重されまくった)世の中は不干渉・寛容型社会になるという。

それはそうだろう。彼と同じ思想を持つ人が増えれば増えるほど全体として彼の望む方向に向かっていくのは当然のことだ。言い換えれば、彼らの規定した範囲内においての寛容と多様性とが尊重される社会になるということだ。そしてその社会において彼らは「寛容する側」であるため、さぞ住み易かろうと思う。

 不干渉の部分をもう少しいい言葉に変えたいなぁ、と飲み会以後ずっと考えているんだけどどうもしっくりくるものがない。ニュアンスはなんとなく伝わると思うのでいい案があったら教えてほしいです

大東亜共栄圏」とかどうでしょう*2

 

さて、私はただ批判をしたいわけではなく、もう解決策出してるじゃないですかと言いたい。それは「自分の精神に悪影響なものを切り離すことで精神安定を図る」の部分だ。

不寛容なものを不寛容な態度で排除していくのはとても不寛容だなあと思うし、寛容でありたいのに不寛容がそうさせてくれないというのであれば、切り離せば良い*3。切り離す行為も人によっては不寛容に映るかもしれないが、私はその円を広げないのであれば上手な共生方法だと思う。

これもまたそこら辺によく転がってる考え方だから目新しさは無いだろうが、それをすれば彼の望む社会は彼から半径数mのところで実現される。ノブナガの円が半径4mだということを鑑みれば相当強いし、何もピトーを目指す理由も道理も無いだろう。

 

おそらく彼から見た私は過干渉で不寛容なのだろう。私から見た彼も不寛容だし、そういうものですよねと思う。

多様性を尊重するのであればそういったストレスは必ず伴うと考えている。だからそういうものにストレスを感じるのは当然のことだ。ただ、そのストレスを取り払おうとする時、それは誰かに対して不寛容であるということに留意すべきだろう。まずその二律背反で悩まなければならないはずだ。

異論反論は是非受けたい。

*1:変えていきたいの部分は原文後半に書かれていたものを解釈した。特にこれらを変えようと思っていないのであればこの話はここで終わりだ。

*2:歴史認識が間違っていたら教えてほしい。

*3:宗教や政治だとそうもいかないだろうからSNSに限る。