今村夏子について

商店街という単語を見たとき、人々はどのようなイメージをするだろうか。私は京都アニメーションのアニメ『たまこまーけっと』に登場するうさぎ山商店街が一番に浮かぶ。アーケードの下で多くの人が行き来しており、花屋や肉屋などがあり、そして向かい合った餅屋がある(その餅屋の娘はとてもかわいい)。もしくは、大型商業施設の登場で寂れてしまったシャッター街をイメージする人もいるだろう。そこは人通りが少なく、賑わっていた頃を想像して悲しい気持ちになるかもしれない。現在か過去かの差はあれど、そこには人々が確かにいて、そしてその多くは明るい雰囲気ではないだろうか。

さて、そこで今村夏子の『父と私の桜尾通り商店街』だ。

父と私の桜尾通り商店街

父と私の桜尾通り商店街

 

今村夏子の作品を一つでも読んだことのある人は、この表紙を見て溜め息をつくだろう。 前述したような商店街のイメージが、その下の今村夏子という著者名を目にした途端、微妙にパースの狂った、なんだか不気味なイメージに変わる。そこには確かに人がいて賑わっているが、しかしどことなく不穏な空気がそれらを包んでおり、アーケードの一番奥をよく見てみると、そこにはむらさき色のスカートを履いた不気味な女が立っているかもしれないと思ってしまう。

むらさきのスカートの女

むらさきのスカートの女

 

今村夏子の作品は、私たちが日常のなかで見ようとしないものや、できれば見たくないものをヌルっと見せてくることが多い。それは公園でキャッキャとはしゃいでいる子どもが笑顔で近づいてきて、手に握った虫を見せてくるアレに似ている。それが虫なら、「やめて」と言って追い払うことも可能だろう。しかし今村夏子が見せてくるのは人間だ。そしてそれは確かにそこにいるのに、無意識に見ないようにしているものであり、それを見せてくる彼女からは嫌がらせの感じがない。ただそこにいて、いたから「いたよ」と言って見せてくるのだ。私たちは溜め息をつく他ない。

 

「読めば世界が変わって見える」などという胡散臭い広告を目にすることがしばしばある。私はそういう広告がついていると購買欲が減退する。「見え方が変わった世界にいてもなお以前の世界の使い古された広告文しか書けないのなら、果たして世界の見方を変える必要はあるんですか」とよくわからない言葉を並べてその本の前を通り過ぎるわけだ。

今村夏子の作品は、読後数日の間は風景がどんよりするようなものが多いが、しかし人間の脳は便利なもので、また私たちは今村夏子ではないため、その後は以前の風景に戻る。ただ、ふとした瞬間、例えば

こういう話を見た時に、私たちは『あひる』を思い出さずにはいられない。

あひる

あひる

 

このように、今村夏子の作品は「世界が変わって見える」わけではないが、変わらない世界における日々のワンシーンで「いたよ」と囁いてくるような、そんな気味の悪さがある。気味が悪いと思ってしまうのは、前述した通りそれを見ないように生活しているからであり、言い換えれば「普通」という勝手に作った枠の中で生きているからだ。今村夏子の作品はそういう枠から外れた者の視点で描かれ、そしてそういう者たちの日々は崩壊するでもなく、続いていく。彼女が見せてくるのは私たちと同じ人間なのだから当然のことだ。

 

抽象的な表現でわかりにくい文になってしまったかもしれないが、ともあれ現代に生まれた以上今村夏子を避けて通るべきではないし、一度読んでみることを勧めたい。無論、ここに書いたのは私の所感であるから、別の感じ方をする人もいるだろう。そういう人の話を聞きたいというのも、また今村夏子を勧める理由の一つであることを白状しておく。