平庫ワカ『ホットアンドコールドスロー』

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『マイ・ブロークン・マリコ』の作者・平庫ワカ先生の新作読み切り。マリコとシイちゃんはどうしようもなくなってしまってからの話だったが、今作はどうにかできる可能性がある時点の話だ。ただ、どうにかできる時点でどうするかを決めることの困難さ、まして新たな命が生まれ、他人と共同体として生きていくという難題に直面する話だから、むしろ多くの読者にとって身近な、より重さを想像できる話だと思う。表現方法や言葉のセンスなんかがもう完全に私のツボ。

 

台所でコールスローを作ろうとキャベツを剥いて洗うシーンから、40数億年遡って地球が誕生し、なんやかんやでホモサピエンスが誕生したかと思えば教科書のホモサピエンスの切り抜きをクラス中から集める男の子へ話が繋がって、春のパン祭りで貰える皿を10年間集め続ける夫に視点が移る。ミクロ→マクロ→ミクロの視点切り替えが大胆過ぎる。ただ大胆というだけではなくて、生命の誕生から現代にいたるまでの途方もない歴史と、今ここで起こっているマクロ視点で見れば米粒以下の出来事をつなげて、それを並列で語ってくれるあたりに優しさを感じる。広大な自然(ありがちなのは海)を見に行って自分の悩みのちっぽけさを認識して叫んでスッキリなんていうことができない人間への、これは肯定だとさえ思う。

そしてそんな途方もない歴史ではなくとも、人はその一生で結構変わってしまうもので、それを受け入れることの困難さは誰しもが経験のあることだと思う。血だらけの妊婦(ましてや妻)をほっぽって皿の心配をしてしまう清司さん*1は大分アレだが、それでも煙草は辞めようとしていて、そういうどっちつかずで腹立たしい感じに生きている人間を感じてしまう。なればこそ、糸さんはなんとか形を保った皿を粉々に砕いてやる必要があったのだろう。現実は変化していっているにも関わらず、いつまでも変わらないものに安心感を抱いて留まり続けようとする彼の頭で、その不変の象徴たる春のパン祭りの皿を叩き割る必要があったのだ。

私自身、どちらかと言えば清司さんよりの人間で、彼を全面的に肯定したくはないが、どうしても分かる要素が大きくて唸ってしまう。変わらないでいてくれたらそのほうがきっと嬉しいだろうと思ってしまう気持ちは確かにあって、しかし現に変化の途中にいる相手にそれを求めてしまうのはとても侮蔑的なことだと理解してもいる。私は皿じゃねえんだぞと言われればおっしゃる通りですとしか言えないだろう。同じように、実際に想像を絶する(だろう)苦痛を乗り越えて子どもを産もうとしている当人の前で、実際の苦痛を伴わない男性はその内にある悩みや恐れを吐露しにくい。私のほうが辛いだろうがと言われればおっしゃる通りですとしか言えないのである。それでもやはり、海に比べたらちっぽけでも、怖いものは怖いし、不安なものは不安なのである。そういうものを内に溜めていたであろう清司さんの、その部分を結果的に掬い取ってくれた糸さん。彼女の求めていた“どうしたらいいのかわからないことを教えてくれる人”は、まさに清司さん(に重ねた私自身のような気もする)から見た糸さんそのものであった。清司さんは“一緒に考えてくれる人”になるほかないですね。

とにもかくにも、「コールスローを...リベンジしませんか」と言える糸さんの強さは本当で、フワフワしてない糸さんの美しさったらなくて、どうしたって糸さんが素敵だ*2。そしてやっぱり引っ張られただけではありそうだけど、手を握り返す清司さんも同様に素敵だと感じてしまうのである。

本音をぶつけあって理解していこうと努める他ない、というふうに文字に起こしてしまうとなんだかありきたりに思えてしまうが、それをこうも美しく描けてしまうのだから、平庫ワカ先生は偉大だ。

*1:ここでは清司清志のこと。巻真紀さんみたいだけど、中身は幹夫さん。

*2:「フワフワしてていいなあ!清司さんは」という糸さんが一番好き。

愛と家族を探して

愛と家族を探して

  • 作者:佐々木 ののか
  • 発売日: 2020/06/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

主義というのは自分が持って実践すればいいだけのもので、その思想を広めようとか異なる主義の人を責めようなどとは思わない*1。その前提の上で、私は反出生主義よりの思想を持っている。そして本書を読んでまず抱いた感想は、「子どもを産むまでの過程」や「子どもの育て方」に対する偏見が最も少ないのは反出生主義的思想を持つ人間なのではないか、ということだ。なぜなら「どのような過程・方法だろうが産んでいる時点で皆同じ」だからである。個別の事情を鑑みないひどく雑で乱暴な理論に聞こえるかもしれないが、問題としている部分が異なっているのだから仕方ない。

無論前提に則って、「産みたい」という願望を否定する気は全くないのである。感情まで制限される世界の住み心地が良いわけないのだから。そしてそういう「~したい」という願望は可能な限り叶えば良いとも思っている。叶ったら嬉しいのだから当然のことだ。そんなわけで、「子どもを産みたい」「家族を持ちたい」と思い、しかしその方法(形態)が大衆と異なる人々が大衆からの謎の圧力で潰されそうになっているのであれば、その圧力が和らげば良いと思う。その意味で、本書はそういう人々の希望になり得ると感じた。

次に、本書で紹介されるエピソードのどれもが「他人と生きていく」ことに対して積極的で、それを実践しているという点に憧れと不安を感じた。前者は他人と生活することへの不安(恐怖)というおそらく誰でも持っている(だろうと私が勝手に思っている)感情を乗り越えてそれを実践する人たちに対する憧れだ。私個人としては、共同生活の幸福なビジョンというものが想像できずにいて*2、だから現状他人と生活したい(それと同等の関係になりたい)とは思えない。ただ、一人でいることと他人と関係を深めていくことを比べてみると明らかに後者のほうが困難でしんどいことだと思うため、それを試行錯誤してどうにか自分の形を見つけようとする姿勢はとても眩しく映る。不安というのもまさにそこで、眩しく映ってしまった以上、そこには「そうなってみたい」という願望があるはずで、この先ずっとそれを抱えて生きていくのはとてもしんどいだろうなという不安である。困難でしんどいことを率先してやることが全て素晴らしいことだとは思わないから、そこではなく、こっちに行ったほうが幸福そうだなという方角を定めて進んでいることが眩しく映っているのかもしれない。「~したい」ではなく「こっちは怖いなあ」という感覚で生きている身としては、どっちがいいだろうなと思ってしまうわけである。

もう一つ、単純に興味深かったのは「沈没ハウス」の話だ。シングルマザーの子育て云々に関しては大学で一度講義を受けたことがある。その内容はシングルマザーの貧困や精神的負担等を軽減するためのアイデアをグループ毎に出そうというものだったのだが、その時に「実現可能かは置いておいて、シングルマザーだけを入居者に指定した団地を造って、その中で保育・家事・外での仕事といった役割分担をすればいいのではないか」という意見を出した。「沈没ハウス」はそれをより緩やかな連帯・対象でもって20年も前に実現したものであるのだから、驚きを隠せずにはいられない。思いつくものは大抵先駆者がいるものだなあと改めて実感した。

 

将来の話などしたくはないのだが、実際将来を思ったときに今の状態がずっと続くのは考えたくない*3。結婚という具体的で威圧感のあるワードは怖いので置いておくとして*4、方角くらいは考えたほうがいいのだろうか。本書を読んで様々な生き方を知り、可能性が広がったような気分ではあるのだが、自分に合ったものを探す・開拓する(あるいはしない)という課題は変わらずそこにあるため、立ってる位置は同じなのである。

どうしたものでしょうね。

 

ところで月が変わって8月になり、お盆という大型連休に入った。一カ月前までの予定では現在すでに退職しているはずだったのだが、実際平然と仕事を続けていて誰に対してでもないがお恥ずかしいばかりである。長すぎる梅雨が明けて暑すぎる夏になったが、木陰の続くサイクリングロードを通勤経路とする自転車通勤の身としては本当に気持ちの良い日々である。天候ごときに感情を左右されない屈強な人間になりたいものだ。

*1:殴り合える関係なら殴り合ったほうが楽しいとは思う

*2:本書に紹介されるエピソードの中でもこれだ!と思えるものはなかった

*3:今は充足しているが、飽き性なので

*4:本書を読んでより怖くなった

あわよくば九龍に行きたい

たいせつなのは、個人的なことだ。その人にしか感じられない喜びや悲しみ。あるいは、ほかの人からすればどうでもいいような人間関係。そういうものが守られなければいけないのだと思う。

『本屋さんしか行きたいとこがない』島田潤一郎

https://100hyakunen.thebase.in/items/30667171

著者はこれの例として『アンネの日記』を挙げているが、タイムリーなことに私は最近『二十歳の原点』を読んだ。他人の日記を他人が本にして売っているのだと思うと気が引けるが、引用の理由ともはや時効だという気持ちで読んだ(書簡集なども同じ気持ちで読んでいる)。

二十歳の原点 (新潮文庫)

二十歳の原点 (新潮文庫)

 

学生運動時代に二十歳で自殺した人の日記である。

二十歳以降の自分を想像できないからおそらく死んでいるなどと言って結局生きている私から見ると、実際に同じように悩み、悩んだ末に自殺をするというのは格好よくすらある。

この頃はよく煙草を吸う。マッチに火をつける。先からだんだんと指先へと炎が移ってくる。子供がやりそうなことである。「どれだけ長くがまんしていられるか、いちにのさん」。アチッと反射的に離すのではなく、熱いなあと意識してから離すようになれたらと思う。 

好きな部分です。

 

煙草と言えば『九龍ジェネリックロマンス』が最高で、鯨井が朝ベランダでスイカと煙草を交互に口へ運ぶ描写の何と素晴らしいことか。

九龍という舞台がまず良いし、ジェネリックテラ、いつもの店、新しい店、封鎖されたいつもの抜け道、知らない道など、登場人物の関係や感情(意識・無意識関係なく)との見事なリンクにため息しか出ない。一生連載してほしいし今すぐ完結してほしい(はやく最後まで読みたい)。おすすめ。

 

影裏 (文春文庫)

影裏 (文春文庫)

 

5月かそこらにコ本やさんがやっていた5000円と2つのキーワードで選書してくれるサービスを利用して届いた本の一つ。

その中の『廃屋の眺め』という短編の一節。

定職を持たず、毎日を無為のうちに送っていると、心に一種の真空ともいうべき良識を見事に欠いた間隙が生まれる。ふとした拍子にその隙間から、すっと人恋しい気持ちが入り込もうものなら、もう駄目で、日ごろ頑なに保持してゆずらなかった他者へのガードが、ぐっと下がる。

 私はこれを経験したい。半年後か一年後か知らないが、近いうち(遠い)にそういう状態になりたいという気持ちで生きている。資本主義の頂点に立ちたい気持ちと路上で生活したい気持ちが同居していて、人間ままならないものだ。

 

ベルセルク 1 (ヤングアニマルコミックス)
 

全巻読んでしまった。やはり映画三部作黄金時代編にあたる部分の質量が半端じゃない。

独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である。

これは前述『二十歳の原点』の引用であるが、同じように独りであり未熟であったガッツが手に入れたものと、それを一度置くという選択のすべてがあの蝕に繋がってしまうという残酷さに心を抉られる。彼が救われないと高野悦子も救われないのだから、私が死ぬまでに彼を救ってほしい。あと化物のデザインが小学生のそれなのに画力で押し切っていく感じがだんだん良いねと思えてきた。

 

その他、最近は劇場で『風の谷のナウシカ』を観たり家で『愛の不時着』を観たり、林道に行ったり目に入った古書店や酒屋を覗いたりしている。劇場でナウシカを観て泣いたあとから散歩している宮崎駿とどういう顔ですれ違えばいいのかわからなくなったし、ソ・ジヘ演じるソ・ダンが愛おしくてしんどいし、林道は勝手に入ったらいけないし、吉祥寺の「百年」という古書店がとても良い(上のほうにリンクがある)。創作物の過剰摂取は毒なので近いうちに小旅行したいですね。来週あたりに鍾乳洞でも行こうかなと思っている次第。

しがつ

某ウイルスさんのおかげで自宅待機命令が出たため、懲役刑に約1カ月の執行猶予がついた形となった。それに付随して研修テキストのようなものをどっさり渡され、それとは別にeラーニングの受講も課された。自宅で机に向かっていれば給与が出るのだから随分太っ腹でありがたい話だが、さすがに不安もある。なにしろ社の人間と全くと言っていいほどに接触がない状態で配属されるわけだし、その状態ですでにビジネスマナーに対する拒否反応が起きているのである。はじめそれを課してきた社に対して不満を持っていたが、悪いのはそれらの形式を作り上げたマナー云々の講習等を生業とする人間達であると思いなおし、彼らを魔王的な存在に位置付けることで精神の安定を図っている。無論私は勇者ではないので彼らを倒そうとは思わないし、適当に相槌を打ってやり過ごす所存だ。というか文句ばかりを言う新人を寛容な心で雇い続ける企業はない。

 

そんなこんなでいつの間にか新生活が始まっていた。越してきた土地は今のところかなり住みよい。最寄り駅周辺は高架下の開発が進んでいて、狭い土地に小規模な店が連なっている。国内の情勢が関係しているのか定かではないが、まだ店が入っていない箇所もいくつかあり今後どんな店が入るのか気になるところだ。

駅から少し離れたところには「カキクケコトリ」というフリースペースがあり、だいたい四畳半ほどの広さに漫画から専門書まで様々な本が並べてある。中央にはロッキングチェアが置かれ、窓際に二席(子どもなら二人座れるが、大人が並んで座るには少し窮屈)、壁際に二人掛けの小さなソファが置いてある。室内に並ぶ本は後述するお店の店主に一度声をかければどれでもいつでも貸し出しが可能となり、二回目以降は室内に置かれている貸出表に本の題名と自分の名前を書くだけでいい。貸出表を眺めると小学生~高校生の利用率が高そう(字で判断している)で、注意書きにも子どもが優先だと明記されていて好印象。そんなわけで、はるか昔に子ども料金を卒業している私は、彼らが寝静まる夜中にこっそりとこのスペースを使わせてもらっている。自宅のすぐ近くにこのようなサードスペースがあることのありがたさたるや、だ。

そしてこの場所を提供しているのが、すぐ近くにある「くらしを遊ぶ展」というお店だ。はじめ何かの展示を行っているところなのかと思ったが、実際はパンやカレーや食器や手作りマスクなどを売っているところだった。何屋なのかと聞かれたらそういうお店ですとしか答えらえないタイプ。攻めてないタイプのスパイスカレーがおいしい(表現の限界)。週3日(水金土、各12:00~18:00)しか営業していないため、仕事が本格的に始まったら通えない可能性もある。カレーは基本金曜のみの販売でたまに土曜も販売しているといった具合なので、火水休みの私はありつけない可能性が高い。かわいいマグカップなどもあるため買ってしまいたいのだが、食器棚に空きがないため保留中。

 

新生活とはいえ、いまだ仕事も始まっておらず(厳密には始まっている)、部屋でダラダラしていることが大半のため、それほど何かあった!ということがない。強いて挙げるとすれば『青のフラッグ』の連載が終わった。

青のフラッグ 1 (ジャンプコミックス)

青のフラッグ 1 (ジャンプコミックス)

  • 作者:KAITO
  • 発売日: 2017/04/04
  • メディア: コミック
 

 27話において冒頭8ページをセリフなしで描いた作者が、何を思ったか突然説明口調のモノローグで5年の月日をすっ飛ばした53話。その経緯についてはほとんど語らずに皆が誰かしらとくっついた描写だけ残して終わった最終話。くっついた相手に不満があるわけではなく、これまで焦らしすぎとも思えるほどの丁寧さで描いてきたがゆえに、突然突き放されたように感じられてしまう終わり方でモヤモヤが残るという感じだ。

オレは二葉と別れた

理由なんて他人が聞いてもつまらない話で

(以下略)

その他人が聞いてもつまらない話を50話以上読み続けてきたのが私だ。しかしまあ、53話を読んで“振った人と振られた人のその後の関係”に光を照らそうとする姿勢に感動していただけに、最終話の終わり方が気に入らないだけという可能性も否定できない。どちらにせよ、あまり良い印象の終わり方ではなかった。

 

ひと月以上間をあけたからもう少し書くことがあるかと思ったが、そもそも記憶力の無さに定評があるため、直近のことしか覚えていなかった。日々あったことを書き留められるほどマメではないので、脳が勝手に成長してほしい。

そういえば『映像研には手を出すな!』の最終回を観ていないので、観たい。

アニメ漫画最近


dorohedoro.net

アニメ『ドロヘドロ』が面白すぎる。魔法使いによって荒らされたTHE☆混沌な世界のなかで、異形の男と体格の良い女が餃子や豚汁を食べて「美味しいね」と言うアニメだ。この作品に登場するキャラクターは皆よく食べる。餃子に始まり、車内で食べるカップ味噌汁とおにぎり、人やゾンビを殺したあとに食べる豚汁、カップ麺、アイスクリーム。より美味しそうなキノコ料理の原材料は人間で、最も調理方法を詳しく描いた鴨のローストは人形になってしまうというのはどうしてと言う他ないが、食事のシーンが多いことでこの作品は混沌系日常アニメとして観ても抜群に面白い(本筋は別にあるのに)。

圧倒的な書き込みによって美しく映る退廃的なデザインのなかで、殺し、殺されそうになり、仕事をし、飯を食べる。現実世界と比較すると作者の脳内を覗き見たくなる程に混沌としていて理解不能だが、その世界にも常識はある。例えば顔の皮を剥がされた恵比寿が自分で服を着られず、藤田が着せてあげたシーン。パズルのような服に苦戦した結果おっぱいが片方露出してしまうのだが、これを見た心と能井は驚き動揺するのである(結局流行ってんのかなで済まされるが)。“そういう世界だ、慣れろ”ということだろう。たまらん。混沌世界でありながら、どこまでもコミカルに描かれる彼らの日常と会話は、むしろハマらずにいろというほうが難しい。さらに、カイマンと二階堂が魔法の世界に乗り込む話(5話)の前半部分、心と能井が「いじめっ子サンドイッチ」を作ることで、この回におぞましくもピクニック感を演出するなど、観ていてニヤニヤしてしまうような構造も用意されているため、もうニヤニヤが止まらないのである。私は原作未読のため、アニメが終わってもまた別の楽しみ方ができそうだ。

 

魔法といえば、少し違うが、kindleストアで配信されている『インコンニウスの城砦』という漫画を読んだ。

インコンニウスの城砦 (馬頭図書)

インコンニウスの城砦 (馬頭図書)

 

表紙から漂う『風の谷のナウシカ』感。過度な期待をしないように努めたのだが、いざ読んでみたらとても良かった。本作は魔術と神が当然に存在している世界において魔術対科学の構図で戦争が行われており、そこで活躍する少年スパイを主人公においた作品だ。魔術対科学というと、思い出されるのは『ゼロの使い魔』や『GATE 自衛隊彼の地にて、斯く戦えり』などの作品で、ファンタジー対現代兵器の構図だ。しかし本作に登場する科学とは、“魔術と神が当然に存在する世界の中で生まれた科学”なのである。どういうことかと言うと、例えば『ハリー・ポッター』シリーズにおいて魔法を使用する際、呪文の唱え方や杖の振り方が間違っていると、小規模な爆発がおき髪がチリチリになる。『ハリー・ポッター』においてこれは笑いどころとして描かれていたが、本作ではその失敗時に発生する発火現象を利用して蒸気機関を動かすのだ。作中の言葉を引用すると、

魔術を失敗し続けることで火神から炎をかすめ盗るって寸法 

ということである。なんて素敵な発想だろう。言葉から察するに、魔術には対価が必要で、それを乗り越えるための悪知恵が科学なのである。ファンタジーな世界観(=幼少期から憧れた世界)が更新された気分だ。一通り妄想しきって、大体アイデアは出尽くしただろうと一人納得していたばかりに、物語前半のこの時点で私はもうやられてしまったのである。もちろんそれだけではなく、展開や心理描写など、全体としての完成度も高い。細かい設定の説明をいちいちせず、しっかりと一巻で完結してる良作だった。作者・野村亮馬の別の作品もいつか読もうと思う。

 

ここ最近はさすがに引きこもりが過ぎて心配になってしまうということで、以前から行こうと思っていた『ハンマスホイとデンマーク絵画』展に行った。

artexhibition.jp

展示されているのはヴィルヘルム・ハンマスホイの作品をはじめとする19世紀のデンマーク絵画だ。目当てはハンマスホイ*1の室内画とスケーイン*2派の絵画。引きこもりを心配して室内画を見にいくというのはよくわからないなと、これを書いている今思い至った。バルビゾン派もそうだが、一つの村に芸術家が集まって様々な絵を描くという動きは面白いし、その村の略図を見るととても怖い。きっと当時のオタクは、その村の方角を向いてサジダよろしく平伏叩頭していたに違いない。私は図録を買って仏壇に立て掛けている。

この展覧会でとても気分がよくなったため、その足で田端にある動坂食堂へ向かった。昼ビール×食堂の再挑戦である。美術館帰り×昼ビール×食堂というのは、もう字面だけで美味しい。動坂食堂にはメニュー表がなく、壁にかかっている札を見て注文するというシステムだった。大衆食堂に配慮は無用である。今回はレバニラ炒め(とても美味しい)単品とビールの中瓶を頼んだため、圧倒的勝利を収めることに成功した。

その後、気分の良い日は散歩をするに限るし、夜には下北沢でご飯を食べる予定があったため、動坂食堂から新宿まで歩くことにした。道中の筑波大学お茶の水女子大学早稲田大学といった我が母校の数々に郷愁を抱きつつ、東京カテドラル聖マリア大聖堂を覗き見るなどし、ダラダラと新宿まで歩いたわけである。その他特段書くことはない。

 

都内の部屋の契約が済んでいるのだからさっさと引っ越せという気がしているのだが、荷造りや各種手続きが面倒すぎてやる気が起きない。言い換えれば部屋は契約できているのだから何も急ぐことはないのである。部屋のレイアウトも考えたくないしネット回線も考えたくない。イヤイヤ期に突入した。とりあえず引っ越す前に茨城方面を散策したいのだが、海沿い以外にわざわざ足を運ぼうと思える場所がない。おすすめスポットがあれば教えていただきたい。

*1:ハンマースホイという表記に慣れていて違和感がある

*2:スケーエンという表記に以下略

映画いろいろ


『マリッジ・ストーリー』予告編 - Netflix

ノア・バームバック監督『マリッジ・ストーリー』。法律や弁護士を通すことで円満な離婚から遠ざかり、言葉を尽くそうとすれば暴走し、二人が子を愛してるがゆえにその子の存在は争点となる。夫婦という制度を基礎にしている人間社会で最も見たくない類の争いが嫌になる程描かれており、理想の母親像と父親像の違いという観点などジェンダー問題も孕んだ作品だ。

見所は主にスカーレット・ヨハンソンの美しさなわけだが、演出はかなり凝っていた。ニコールとチャーリーはそれぞれ俳優と劇作家(監督)で、彼らが弁護士等を雇って武装する際、ニコールは紹介された敏腕弁護士によって演技指導を受け、チャーリーは弁護士を自分で選ぶ*1。また、チャーリーはロサンゼルスに部屋を借りた際、調査員に備えて部屋のレイアウトを考えるなど、劇作家(監督)としての側面が強調されており、職では名誉な賞を得ながら、その才能が家庭というより小規模なコミュニティでは全く機能しないという見せ方をする。それぞれの職が夫婦としての軋轢や離婚調停の進め方にスライドし、次第にその関係性は変化していく。途中は省くが、最後には俳優(ニコール)の書いた台本(好きなとこリスト)を監督(チャーリー)が音読するのである。音読するチャーリー(俳優)とそれを見つめるニコール(監督)という構造への変化は、独裁的な夫とその被害を受けた妻の逆転という意味では決してなく、互いの心を理解するために必要だった過程だ。その証拠に、ニコールは実際の職として監督業をはじめるに至ったが、チャーリーも監督業を続けている。対等に互いを理解し、同じ道を走っていくのである。このような美しいシークエンスによって、この作品はただの見たくない類の離婚劇として終わらなかったと言えるだろう。

ただ、個人的にこういうテーマを扱うのならば子どもの視点を強く描いてほしく(目的が違うから仕方ないのは分かる)、そんな気持ちからスコット・マクギー、デヴィッド・シーゲル監督『メイジーの瞳』を久しぶりに観た。

ストーリーは静かに進み、メイジーのファッションがそこに彩りを与えるため、視覚的にはとても幸福なのだが、次第にメイジ―は着せ替え人形なのではないかという不穏な感じがしてくる。父と母、その再婚相手のリンカーンとマーゴたちの間を行き来し、ついに知らない場所で目を覚ましたときに発した

I wanna go home.

という一言に苦しくなる。 離婚調停の期間で夫婦の間を行き来する子どもの家は一体どこなのだろうか。『マリッジ・ストーリー』においても住居が裁判上重視されていたが、子どもの発する言葉にはそのような形式ではない切実さがある。最終的にはリンカーンとマーゴのもとで暮らすことを選択したメイジ―だが、その家は売り出し中の期間限定物件だ。希望のある終わり方だったとは思うが、メイジーの神聖さゆえに関係が崩壊していないという危うさもある。ともあれ、リンカーン、メイジー、マーゴの並びが幸福の象徴とでも言いたくなるような美しさで、実はそれだけでもう満足だったりする。

 


『失くした体』予告編 - Netflix

ジェレミー・クラパン監督『失くした体』。事故によって切断された右手が本体を求めて大冒険という難解すぎる設定の映画だ。保管庫から飛び出した右手は生まれたての子鹿のようにプルプルと立ち上がり、歩き方を覚えて本体を目指す。その道中とナオフェル(右手の主)の過去の映像が交互に流れ、セリフ少なめに映像で魅せるような演出をしている。流れる回想は右手の記憶であり、ナオフェルの主観だ。彼の視界は色味が薄い。それは幼い頃に両親を失ったことで生活環境が悪化し、人の優しさに触れる機会が減ったためだろう。そんな中で一人だけ彼に優しい言葉を投げかけるガブリエルが現れ、映像の中で彼女は文字通り異彩を放つ存在となる。ナオフェルは作中に頻出するハエの羽音のように不快な思考回路でもって彼女との接触を図り、気持ちの悪い恋愛が始まるのである。

右手は、ナオフェルの過去の幸福そのものだ。幼少期にボイスレコーダーを持って様々な音を拾い集め、ピアノを弾き、砂を掻き上げ、ハエを捕まえようとする。幸福な空間では手が多くの役割を担っていた。つまり右手の切断は幸福な記憶の切断なのだ。少なくとも右手はそう考えていて、それが動機で本体に帰ろうとしたのではないだろうか。しかし本体であるナオフェルは、ガブリエルに拒絶され右手を失っても、足で地面を蹴って飛び、前を向くのである。彼の吐く息は白く、色味を欠いた冷たい世界でも彼には暖かい体温があることが分かる。その様子をみて、右手はさぞ安心したことだろう。ウルキオラを思い出す映画だった。

 


『クロース』予告編 - Netflix

セルジオ・パブロス監督『クロース』。サンタクロース誕生の話。大人も子どもも楽しめるタイプのアレ。歴史的な対立などは大人の感情で、より楽しく遊びたいと願う子どもがやはり最強という感じの映画だった。

 

正直なところ『映画けいおん!』と『たまこラブストーリー』についてあれこれ書こうと思っていたのだが、私の中では改めて『風の谷のナウシカ』について書くようなもので、その気恥ずかしさゆえにやめた。わかりきっているほどに名作なのである。ここ数日でこの他に何作か観たような気がするが、思い出せないので仕方がない。思い出したらまた書こうと思う。

*1:ニコールの弁護士によって選ばされたとも取れるため、このあたりからチャーリーは監督から俳優へ変わっていく。

押切蓮介『ハイスコアガール』

hi-score-girl.comひねくれ者とお嬢様、抑圧的な英才教育、突然の海外移住、三角関係等々、ともすればありきたりと一蹴されかねない諸要素を詰め込んでいるにも関わらず、それでもこの作品はめちゃくちゃ面白い。

もちろん、作中に登場する数々のレトロゲームが、それを経験してきた人でも経験してない人でも楽しめるような解説でもって紹介されている点もこの作品の魅力だ。しかしそれだけではなく、ゲームは登場人物たちの心情を表し、拳で語り合うとでも言わんばかりに対戦でそれぞれの思いを語り合う機能も持つ。

さらに登場人物が軒並み魅力的だ。春雄の少年性、喋らないのに感情表現が豊かな晶、この二人と関わることで悲しいほどに人間味が出てしまう日高。なみえさん、真、宮尾、土井らの魅力もこれに劣らない。

なにより、春雄という主人公が年相応に無力であることが素晴らしい。晶の指南役である業田にボロクソ言われても言い返せないし、業田の方針を変えさせたのは春雄ではない。もちろん晶の海外移住を止めることなどできず、自分に向けられる好意に鈍感で、最後まで選択を間違える。成長の過程にあって、流れに流され、自身が何に戸惑っているのかが分からずに戸惑っている。

そしてそんな春雄だからこそ、自分の抱く感情を自覚し、その思いを伝えた上で、パスポートを取得して追いかけると約束する様はとても面白いし感動的だ*1

また、私としてはその感動と同時に春雄の成長が悲しくもあるのだが、そんななかで土井が放った

あいつはありのままであってほしいな。

ゲーム馬鹿であったほうがキラキラしてんのに。

というつぶやきに、土井の意図した形ではないだろうが、勝手に救われた気持ちになってしまう。

この他にも、この母にしてこの子ありと言いたくなるような良好な母子関係、行動の端々から感じ取れる少年的な優しさ等、春雄の魅力は語り尽くせない。それを理解して自身の初恋を譲り、心から応援する宮尾も出来過ぎた良いヤツすぎる。

 

出来過ぎた良いヤツな宮尾と対照的に、日高が浮かんでくる。嫌なヤツという意味ではなく、あまりにも人間だからだ。この作品の人気1位を予想しろと言われたら私は間違いなく彼女に投票する。

1期において悔し涙を流しながら告白するという、個人的アニメ界屈指の名シーンを飾った日高(あの表情を作った制作陣は天才)。ゲーセンから走り去る春雄の背中を見つめるところから始まり、春雄の斜め後ろの席、鍵当番のときも教室の後ろで控え、ゲームは見ている方が楽しいと席を譲る。そんな彼女が次第に春雄に好意を寄せ、それが叶わないと分かってしまったからこそ、「勝ったら付き合う、負けたら諦める」という誰も得をしない勝負を持ちかけ、横に立つために正面からぶつかるという少年漫画的思考回路でもって爆走する。もはや主人公だ*2

2期での日高は、痛々しくて、見ているのが苦しいほどに人間であった。

1期で正面からぶつかって負けてしまった彼女が、2期ではあっさり勝利を収める。しかしその勝利が何かを変えてくれるわけではない。彼女は春雄よりも精神的に成長し、それに伴ってゲームの勝敗が現実に及ぼす影響は薄れてしまう。ゲームでの勝利が現実を変えないから、彼女はその勝利を口実に春雄をデートに誘う。

ファミレスのシーンは地獄だった。成長しているとはいえ、大人にはなりきれない日高の決死の性的アプローチと、もはや成長を拒んでいるようにすら映る春雄の残酷な少年性の対峙。日高の背水の陣とでも言わんばかりの構えを前にして、ただたじろぐだけの春雄だが、それを責めることはできない。彼らは思春期真っ只中の少年少女であり、それゆえ成長速度が少し違うというだけだ(私の知ってる高1はどこにもいないけど)。そして、そこが春雄の魅力でもある。仮にホテルに行ったとて、嬉し恥ずかし朝帰りなどにはなっていなかっただろうし、日高は損な二択ばかりを用意しがちで本当に人間。

何より残酷だったのは、この一連のシーンで画面に映るほぼ全てのものに、春雄と晶の歴史が刻まれていることだ。ゲームセンター、ファミレス、ホテル、朝帰りと、その全てに晶の影がちらつく。極めつけは、帰りの電車で晶が春雄と日高にあげた飴。小学生時代、春雄が晶にあげた飴と全く同じものだ。観ているこちらが勝手に絶望してしまう。

 

私みたいなお邪魔虫

 断る権利もない私

端々に見られる自虐的な言葉は、春雄へのささやかな当てつけでありながら、彼女自身に一番ダメージが入っているのだろう。少年であり続ける春雄と並ぶことで、より一層人間味が強くなってしまう日高。それでも影の中を歩く春雄に対して、彼女は陽の中にいる。母親の説得も虚しく、頼りのゲームは故障中という局面で、最終的に春雄を陽のもとに引きずり出すのは日高だった。彼女の喝でゲームの電源がつき、彼女の叫びとゲーム画面のリュウがリンクする。様々な感情が胸中をぐるぐるしていると分かる口元のクローズアップ。笑って見送ったあとでしっかりと泣くあたりに、春雄と同年齢なのだと再認識させられて辛くなってしまう。日高だけ純文学の世界で生きてないか?

日高がゲームの電源を入れたことにより、ゲーム内のキャラクターは春雄を守る壁となり、加速させる風となる。『ソラニン』で植え付けられた原付のトラウマを払拭させてくれるような安心感。最後、空港で派手に転んだ春雄を守ったのは、日高の使用キャラであるフォボスだった(たぶん)。

 

もはや、日高のあまりにも切なく、だからこそ美しい人間味を描いた作品と言っても過言ではない。演出がとても凝っていて、確実に拾い損ねているものがあると思う。素晴らしすぎる作品だ。

ちなみに、どうしても日高に目が行ってしまうということで、落ち着いて一度俯瞰してみたときに、やっぱ真なんだよな!となったりする。ときメモで女心を学べというセリフを、よくぞこの作中で言ってくれた。

 

・買って

 

・いちおう

あひるの空(1)

あひるの空(1)

 
ソラニン 新装版 (ビッグコミックススペシャル)

ソラニン 新装版 (ビッグコミックススペシャル)

 

 

*1:話は遡るが、春雄に「お嬢様の心の支えに〜」などと言ってしまったじいやの神経はどうかと思う。春雄自身がそう願うのならまだしも、普通に考えて一介の高校生に頼んでいいレベルの話ではない。

*2:全くの余談だが、この辺りから登場し私の支持率をかっさらっていった真が、春雄に女心を勉強しろと言ってときメモを手渡したシーン。ときメモで恋愛を学ぶといえば『あひるの空』の千秋ではないかと連想し、『あひるの空』においても、凡人でありながら現状をなんとか変えようと藻掻き、なにも成せなかった日高という登場人物がいたことに思い至って、その偶然にため息をついてしまった。姓が日高の人に出会ったらお酒を奢りたい。